今将人のweblog

I was a monster, now I am a desert traveler on the redhill.

肥溜めに人権はない

「男子のいじめと女子のいじめは違う」と書かれた本を読んだことがある。「しばしば『男子はさっぱりしてていいよねー。女子は陰湿だからー』と言われるが、男子には男子なりのいじめの構造がある」というような文章だった。

いかんせん20年以上前の記憶。現在はこの説も更新されているかも知れない。しかし当時の私は戸惑った。「では、男子からも女子からもいじめられている自分は何者なのか?」

覚えている限り、小学校から高校まで女子は「グループ」を構成しており、仲良しグループの証明として名札にお揃いのシールを貼る、というような行動があった。自分の好きなものを身に着けたい私は、どのグループにも所属を断られた。例えば、ある女子グループに取り囲まれ、「あんた、〇〇ちゃんと友達じゃないんだから、あだ名で呼ぶの止めなさいよ」と詰め寄られるような。一方で積極的な加害行為は、女子トイレの個室に入ると上から水を掛けられるなど、そう苛烈なものではなかったように思う。

しかし男子は違った。美術の時間に描いた絵を踏み付けたのも、ロッカーに貼られた名前シールをカッターで切ったのも、下駄箱に入れていた靴に押しピンを入れたのも、学校指定の鞄を焼却炉に放り込んだのも、男子だった。

加えて、男子の中でのいじめに私は利用された。私は「バイキン」と呼ばれていたため、男子の中でのいじめっ子が、いじめられっ子を私に向かって突き飛ばし、ぶつかると「こいつバイキンに触ったー汚ねえー」と囃し立てた。いじめられっ子はいじめっ子に反撃し、返り討ちに遭っていた。その間、私はその光景を見ているだけだったし、時には結末を見る前にその場から去った。

男子にとって私は「肥溜め」だった。いじめられっ子を肥溜めに突き落として、糞尿まみれになっている様を笑うことが彼らの「いじめの構造」だった。私は人間ですらなかった。肥溜めに人権はない。

私が「自分らしく生きる」「ありのままの自分でいい」といったキレイなフレーズを使わない理由のひとつは、学問的な背景に依る。それとは別に「自分は人間ではない」という肌感がある。肥溜めが「ありのままの自分でいいんだ!」と主張したところで、肥溜め以外の何物でもない。だから私は「人権」という言葉を使って、自分が人間であることを自分にも他人にも認めさせなければいけない。認めさせるために足掻いてきた。まずは「人間」の枠に入らなければ、自分らしさもクソもない。文字通り!

では現在の私は?「常に足首まで“死”に浸かっていて、“死”のかさが増えたり減ったりすることはあっても、“死”はずっと足元に纏わり付いている」感覚を抱えている。これを希死念慮と呼ぶのか、生きていることへの罪悪感と呼ぶのか、あるいは名前が不要なのかはさておき、一応「人間」枠にねじ込めたように思う。

それでもなお、私を「人間」と認めない、認めたくない、認められない人もいる。だから私はまだまだ足掻きを止めるわけにはいかない。何がハッピーだ。何が雰囲気だ。最初から「人間」だった彼らとの乖離と、そうでない私を置き去りにする彼らへの怒りが、私を生かしている。

そして皮肉なことに、女子よりも主に男子にいじめられたことは、私の「自分は女性ではない」感覚に根拠を与えてしまったことは補記したい。「自分は女子ではないから、女子よりも男子にいじめられるんだ」という納得感は、逆説的に自己肯定に使われた。どんな熾烈な状況でも、私は一縷の希望を見出さずにいられないのかも知れない。生まれ変わったとしても二度と経験したくないが。

最後に、ここまで書いて気付いたことがある。私は実際に肥溜めを見たことがない。小説や漫画の描写には覚えがあるが。「肥溜めって何?」と思われた方は、各自で検索していただきたい。私がどのような存在だったかが垣間見えるだろうから。